そう、忘れもしないキャバクラでの思い出。
うつ病で休職と復職をくりかえしてた僕は、週1ぐらいでキャバクラに通ってました。
当時は北千住。
腫れ物にさわるような扱いを誰からもうけるなか、じぶんの存在に疑問をもち、もう生きることに何の意味があるのかわからなかったときです。
いまおもえば生きることに大きな意味はないとハッキリ言えますが、当時は何もしなくても苦しい、生きてることじたいが苦しい時期だったんです。
そんななか酒ですべてを忘れたい、プラス女の子と話したいといった欲望からキャバクラに行ってたわけですが、そこで出会った子に鬱病であること、じぶんの過去の栄光、現在の不甲斐なさ、将来が真っ暗闇でしかないことを色々な女の子にはなすわけです。
じぶんの存在価値を知りたかった。
たった一瞬でもいいから、じぶんを認めてもらいたかった。
同情してもらいたい。
そんな心情でした。
ほんと面倒くさい客ですね、重くて重くて嫌気がさした子がほとんどだったでしょう。
が、それだけがぼくがここに存在してるといった意味を感じられる唯一の方法だったのです。
ある日、はじめていったお店でまだ20才そこそこの子が横につきました。
すごくかわいい子で、はっきりしたじぶんの意見をもった子。
専門学校を卒業してからは、アパレル業界で昼間は正社員として仕事をし、夜はキャバクラで働いてるとのこと。
もう朝から夜まで仕事漬け、それじたいは僕も病気になるまえはそうした生活をしてたので「スゴイなぁ」程度しか感じませんでしたが、どうやら両親になにか深い事情があるようでした。
深くは聞かなかったものの僕とは人生の経験値がちがうことをヒシヒシと感じ、ぼくの鬱病の愚痴にたいしても「過去は過去、今は今」そうしたことをビシバシ言っていました。
ほんの些細なことに感じるかもしれませんが、この子と出会って話せたことが、すごく生きることに対して(病気にたいして)前向きに考えることができるようになったキッカケです。
過去は過去。今は今。
冷静にかんがえれば当たりまえのこの言葉が、当時のぼくには深く突き刺さりました。
20才そこそこの子がものすごい信念めいたスゴみをもって、そう話しているんです。
そのときに、いままで自分の心のどこかでわかってた、でも認めたくないものを、はっきりと代弁してくれたような清々しさがありました。
で、じぶんがやらなきゃいけないことが分かった気がしたのです。
そのときからです。
過去の思い出なんかにしばられずに、いま出来ることからはじめよう。
そうした心の変化をかんじはじめ、じぶんから逃げることをやめました。
じぶんが何者なのか、両親、はたまた先祖のルーツを探したり、京都の比叡山で仏教のルーツをたどったり、ぼくがぼくである理由を探す旅をはじめたのです。
本をたくさん読みました。いろんなことを考えました。いろんな価値観に触れようといろんなとこを旅しました。
そうすると不思議なもので、じぶんのアイデンティティ、すなわちエゴのようなものが強化されていくのを感じたんですよ。
それとどうじに、じぶんは生きてるんじゃなくて、生かされてるんだとも。
この変化が、うつ病の克服にはすごく大きかった。
ありとあらゆるものを事実で受け取るようになり、そこには物事が起きた、という事実だけがあるんだと。そのたった一瞬こそがすべてであり、それ以下でも、それ以上でもない。過去も未来もなんの意味もない。意味があるのは今、この瞬間だけだと。
そうしたふうに物事をとらえるようになっていったのです。
と、ここまで書いて疲れてきたので、おしまい。
書きたいことはほぼ書いたので。
さいごに付け加えておくと、このキャバ嬢はその後も何回か指名してはいり、メールでやりとりするようにもなりましたが、数ヶ月あけて行ったときにはもう辞めてました。
何度かメールしても返信はこず。
連絡がとれなくなったことは残念でしたが、いまでもすごく感謝しています。
ほんとにありがとう。